こんにちは。 松崎 (まつざき)です。
前回まで、橘橋、大淀大橋の北詰めから江平五叉路( えひらごさろ)までの大淀川北側のご紹介を
してまいりましたので、今回は2つの橋の南詰めからの町並みを取りあげます。
◎ 橘橋南詰めから南バイパスまで
明治13年(1880年)まで、大淀川
には一本の橋もなく、人々は川を
船で渡って"いたようですが、洪水
の時は川を渡れず大変困っていた
のではないかと思われます。
当時、今の橘橋南詰めから南側一
帯は、「太田村中村町」と呼ばれて
いたようで、現在の町名に反映さ
れています。
橘橋南詰めから南バイパスまでを
「中村通り」と言い、町名は道路の
東側が中村東1~3丁目、西側が
中村西1~3丁目となっています。
また、中村東1~3丁目の東側一
帯を太田1~4丁目と言い昔の名
残りを残しています。
荷役運送はほとんどを船に頼って
いましたので、天然の海の「良港」のなかった大淀川北部よりも、南部の方が発展していたと言われて
います。橋のない時代の話です。
◎ 初代橘橋の架橋 福島邦成
江戸時代、日向 (ひゅうが)の国と
呼ばれていた宮崎県は分割されて
諸藩に治められていましたが、宮
崎市一帯は幕府の直轄領と延岡
藩領で、一部が飫肥藩(日南市)領
になっていたようです。
初代橘橋は、太田村中村町に住ん
でいた延岡藩の医師によって架けられました。
宮崎病院跡(現在はお寺です・中村西1丁目)
私財を投じて大淀川に橋(木橋)を架けた人の名は、 福島邦成 ( ふくしま・くになり)と言います。
明治13年(1880年)4月末に完成して、「橘橋」と名前を付けたのもこの人と言われています。
橘橋の架橋以外に、太田村中村町に「宮崎病院」を開設したとの事ですが130年後の現在、中村町
~太田町にその痕跡は残っていません。
明治6年(1873年)、初代宮崎県はすでに設置されていましたが、民間人の手で橋が架けられたこと
を思いながら今度大淀川の河川敷を散策するときは、「橘橋」が違って見えるかもしれません。

現在、数多くの橋が架けられて
いる大淀川ですが、その第1歩は
苦難の始まりでした。
完成して4ヶ月後には洪水の為に
流され消失してしまったのです。
現在の福島邸(中村西1丁目)