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宮崎市 パイロットガイド vol.6

 こんにちは。 松崎 (まつざき)です。

前回まで、橘橋、大淀大橋の北詰めから江平五叉路( えひらごさろ)までの大淀川北側のご紹介を

してまいりましたので、今回は2つの橋の南詰めからの町並みを取りあげます。

◎ 橘橋南詰めから南バイパスまで
PaVZzINoVE.jpg明治13年(1880年)まで、大淀川

には一本の橋もなく、人々は川を

船で渡って"いたようですが、洪水

の時は川を渡れず大変困っていた

のではないかと思われます。

当時、今の橘橋南詰めから南側一

帯は、「太田村中村町」と呼ばれて

いたようで、現在の町名に反映さ

                                        れています。


6ce_qxbioC.jpg橘橋南詰めから南バイパスまでを

「中村通り」と言い、町名は道路の

東側が中村東1~3丁目、西側が

中村西1~3丁目となっています。

また、中村東1~3丁目の東側一

帯を太田1~4丁目と言い昔の名

残りを残しています。

荷役運送はほとんどを船に頼って

いましたので、天然の海の「良港」のなかった大淀川北部よりも、南部の方が発展していたと言われて

います。橋のない時代の話です。


◎ 初代橘橋の架橋  福島邦成
ofM2QaaEZO.jpg江戸時代、日向 (ひゅうが)の国と

呼ばれていた宮崎県は分割されて

諸藩に治められていましたが、宮

崎市一帯は幕府の直轄領と延岡

藩領で、一部が飫肥藩(日南市)領

になっていたようです。

初代橘橋は、太田村中村町に住ん

でいた延岡藩の医師によって架けられました。
              
     宮崎病院跡(現在はお寺です・中村西1丁目) 

私財を投じて大淀川に橋(木橋)を架けた人の名は、 福島邦成 ( ふくしま・くになり)と言います。

明治13年(1880年)4月末に完成して、「橘橋」と名前を付けたのもこの人と言われています。

橘橋の架橋以外に、太田村中村町に「宮崎病院」を開設したとの事ですが130年後の現在、中村町

~太田町にその痕跡は残っていません。

明治6年(1873年)、初代宮崎県はすでに設置されていましたが、民間人の手で橋が架けられたこと

を思いながら今度大淀川の河川敷を散策するときは、「橘橋」が違って見えるかもしれません。

vq19exMgV3.jpg

現在、数多くの橋が架けられて

いる大淀川ですが、その第1歩は

苦難の始まりでした。

完成して4ヶ月後には洪水の為に

流され消失してしまったのです。

         




                                                   
                               現在の福島邸(中村西1丁目)



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